母との闘病日記

母と私の生きた証を残したい

~ 誤嚥性肺炎 疑念-再発の章(父の回想録) ~

7月23日(日) 因縁のS会KG総合病院

今から、さかのぼること16年前のことである。

2002年7月

 前年の夏冬のボーナスは支給されず、先月から給料も半分となった。

 ある日の午後、経理部長から、今、作業をしている状態をそのままにして

 電気等も消さずに帰宅し自宅待機するように言い渡される。

 数日後、破産管財人より倒産を通知する手紙が届く。

 当面働く気がなく失業保険で暮らしていた。

同年10月

 父の具合が悪くなり、1,2週間に1回はタクシーか救急車を使って、病院で

 点滴を受けるようになる。

同年12月20日

 母から電話があり、父の様子が変なので来て欲しいと頼まれる。

 (この時、父と母は同居、私は今のアパートを借りて近くに住んでいた)

 しかし、妙に腹が痛くて断ってしまう。

同日、深夜

 再度、母から「お父さんが死んでしまう‼ 早く来てくれ」と電話がある。

 数分後、父の傍に行ったが、虫の生きなので、すぐに救急車を呼ぶ。

 救急車が到着し、心臓マッサージと痰吸引をしてから、担架に乗せ車両に運ぶ。

 母と私が同乗し、女性の救急隊員の人が「大丈夫ですよ」と励ましてくれる。

 別の隊員の人が、一番近くの救急病院、S会KG総合病院に電話する。

 「81才、男性、心肺停止状態、受け入れできますか?

 病院からの返事を待つ...5分...10分...20分...30分...

 業を煮やし救急隊員が、母と私に我々救急隊は、病院からの連絡を待ちました。 

 しかし、30分が経過しました。そのことは、ご承知おき下さい。

 他の病院を当たります。

 数分で受入れてくれる病院が見つかり20分程度で 到着したが、

 その病院では死体の検死しか、してもらえなかった。

 救急隊員全員が、母と私の前に整列し、お悔みの言葉を頂戴するが、

 私には返す言葉が見つからなかった。

ネット等で心肺停止になり10分以内に処置がされないと、その生存率は、極めて

 低いことが書かれている。そのことも含め「救急隊員にすべき返事を30分以上放置

 したことは、救急病院として、あるまじき行為ではないだろうか。」

 私の主観だが、この病院、先生や看護師、その他スタッフは、他の病院と遜色ないと

 思っている。

 しかし、病院の経営方針や患者に対する姿勢は、お金が取れない所は無頓着で、

 取れる所はむしり取る。それを感じさせる。

 救急隊との応対に対しては、お金にならない。大部屋が空いていても、個室しか

 空いていないと言えば、病院の利益になるのである。

 だが、今はこの病院に母が入院している。家からも近くで、何かあれば5分で行ける。

 何とか母を治したいのである